様々な断片から自動車史の広大な世界を管見するこのコーナー、今回は、歴史上始めてユーラシア大陸を車で横断した冒険家ボルゲーゼ公爵と、彼の冒険を成功に導いたイタリアの名車第1号イターラについて語りたい。
北京から巴里までの大冒険
ローマのボルゲーゼ家といえば、ローマ教皇パウロ5世を祖先に持ち、ナポレオンとも縁戚になるヨーロッパの貴族の名門中の名門である。当主のシッピオーネ・ボルゲーゼ公爵は36歳、安寧な生活に満足できない冒険家であり、冬山にひとりで臨むほどのアルピニストであった。ある日、北京・巴里ラリーの開催が新聞に発表されると、これこそが自分のために用意された冒険と確信して、すぐにイターラ社にラリー用の特別仕様車を注文した。
しかしいざ蓋を開けると、25台の参加予定者の多くが棄権したので、中止が決定されたが、ボルゲーゼ公爵は自分1台だけでも北京から出発するという電報を主催社であるパリの新聞社に送りつけた。その情熱に呼応するように他の有志数台も参加を表明して、主催者の中止決定を覆した。かくして1907年6月10日、5台の参加車が北京をスタートした。その内訳はオランダから4気筒のスパイカー、フランスから2台の2気筒ド・ディオン・ブートンと単気筒の3輪車コンタル、そしてイターラである。
晴れがましくも先が見えないスタートの際には、北京に外交官として赴任していた公爵の弟リヴィオと、公爵夫人であるアンナ・マリアもイターラに同乗して、華を添えた。
さて同伴者ふたりを途中から鉄道で北京に帰らせてからが、彼ら、すなわちピロータのボルゲーゼ公爵とメカニックのエットーレ、そして新聞記者ルイジの3名による難攻不落を超える道程の始まりだった。道無き道を進み、山岳地では大きな岩の間の隙間を見つけて縫って進んだり、よじ登って越えた。また平原では強烈な陽射によって表面は乾いた土地でも、その下は底なし沼になっていて突然ずぶずぶと埋もれてしまったこともあった。河に行く手を遮られることも度々で、浅瀬を見つけて渡ったり、材木を調達して橋を渡したこともあった。毎日が苦難の連続だったが、肉体も精神も強靭な彼らは、一晩休むと翌朝にはまた力が漲るのを感じて、新鮮な気持ちでその日の冒険に向かった。
メカニックのエットーレは鉄道操縦士の父親の事故で孤児となったのをボルゲーゼ公爵に救われた男だったが、毎晩、点検修理が終わるまでは食事もとらないほど献身的に働いたので、いつも翌朝にはイターラは完璧な状態で出発できた。そして何よりも公爵の不屈の意志と優れた判断力と率先して事に当たる指導力によって、彼らは北京から巴里までの62日間1万kmの冒険の旅を成し遂げたのだった。