コラム

バスファンでなくても乗ってみたい!? 進化したバスツアーに参加!【その2】~歴代日野セレガでゆく天橋立・舞鶴旅~

今回は「京阪京都交通バスファン感謝ツアー」の模様をお届け!

バスに乗る旅と言えばどのような旅を思い浮かべるでしょうか。
はとバスの旅のような、例えばこれからの季節ならサクランボ狩りなどの果物狩りを楽しんだり、観光地を巡ったりするバスツアーをまず思い浮かべるのではないでしょうか。余談ですが私は、果物狩り全般、いわゆる“狩りもの”の旅が好きです。この場合、バスはあくまでも旅の手段です。
一方、バスそのものが目的であるツアーもあります。それには、バス好きの個人が好きなバスを事業者から借りて貸し切りツアーを主催するバスファンによるバスファンのためのツアーとバス会社が主催するオフィシャルなツアーの2種類があります。
従前は個人貸し切りツアーもバス会社のそれもさほど違いはありませんでしたが、2022年前半のバス会社主催の方に参加してみてちょっとした変化を感じました。
これならもしかしたらバスファンではない人が参加しても楽しめるのでは?と思ったのでシリーズで紹介しようと思います。

【画像73枚】京阪京都交通のセレガで天橋立・舞鶴を満喫できるバスツアーのフォトギャラリーはコチラ
「ただバスに乗るだけならバスファン個人貸し切りツアーには勝てないので、事業者が主催するアドバンテージを活かした『ならでは』な企画で差別化したい」
とは、ツアーの仕掛け人である京阪京都交通運輸部運輸課の西村さんの弁。
2022年前半に行われたツアーにはこれまでにない特長が2つありました。それは次の二点です。
① 添乗しているその道の研究者や専門家から、路線や沿線の歴史を時代背景と共に学ぶ
② 他のバス会社とのコラボで二社のバスに乗る(今回は一社2タイプのバスの予定でしたが、人数不足で1台になってしまいました)
どんなツアーだったのでしょうか。私が参加したツアーを5回に分けて紹介します。今年後半の楽しみの参考になれば幸いです。
第2回は、3月20日に行われた“京阪京都交通バスファン感謝ツアー~<路線探訪>歴代セレガでゆく京都交通の足跡 交通ジャーナリスト鈴木文彦氏と行く天橋立・舞鶴編~”です。

一般道経由の中長距離バスが走っていたバス全盛期に思いを馳せる

今回のツアーは、旧京都交通の幹線、国道本線を辿る旅でした。
国道本線とは京都祇園から北部の丹波地方を結ぶ路線の呼称で、主な運行系統には京都祇園~園部・福知山・東舞鶴・天橋立が存在していました。
JR亀岡駅北口→JR西舞鶴駅→舞鶴港とれとれセンター→京都交通舞鶴車庫→ドライブインダルマ→宮津駅→天橋立知恩寺駐車場→味夢の里→JR亀岡駅北口のルートをできるだけ過去の路線を復刻運行しながら走りました。

京都祇園から天橋立・舞鶴・綾部に直行バス路線があったとは。京都市内から直行バスに乗って日本海側に海水浴に行く!という時代もあったそうです。
今はバスは市内の短距離移動のためで、市を越える、ましてや県を越えるなんて考えたこともないという時代でしょう。しかしこのような中長距離路線バスがバリバリ走っていた時代もあったのです。この国道本線の場合、最盛期は15分に一本の快速や急行バスが京都祇園から発車していました。
全国どこも同じだったと思いますが、このような中長距離路線バスが発達し始めたのは1950年代。1960年代には全盛期を迎えました。いわゆる「バス黄金時代」です。
発達の背景には、国道クラスの道路の改良(舗装、拡幅など)、並行する鉄道がまだ“汽車の時代”でスピード、快適性、利便性のレベルが低かったことが挙げられます。鉄道が直行しない区間での路線の発達もありました。例えば、姫路~鳥取、広島~松江、福岡~大分などショートカットするような路線ですね。路線が八木~新宮間に短縮されてしまったものの、今なお路線バス日本最長距離を誇る奈良交通の奈良大仏前~新宮間の路線、いわゆる“新宮特急”が生まれたのもこの頃。短距離路線であっても近隣の県またぎに特に支障がなかった時代です。
バス旅番組で「県境でバスが繋がらない!」と山中をへとへとになるまで歩くシーンがおなじみになっていますが、そんなことは起こらなかったであろう今は昔のお話です。

中長距離バス路線がなくなった理由

一つは、先に挙げたような鉄道の欠点が徐々に解消されたことが挙げられます。
京都をよく知る人なら山陰線の進化を思ってもらえれば想像やすいでしょう。
もう一つは、モータリゼーションの進展です。
モータリゼーションは、マイカーの普及による公共交通機関離れ、それに伴う交通渋滞による定時運行(時刻表通りに運行すること)の困難という二つの影響をバスに与えました。
意外と気づきませんが、時刻表通りに運行できないことはバス離れの大きな要因になります。時刻表通りに来ない、いつ来るかわからないというのはバスを待つ人にとってストレスになりますし、乗っている人にもとってもいつ着くのかわからないことはストレスでしょう。今ではバスロケが発達しているので、いつ来そうなのかは見えるようにはなりましたが。
実はもう一つ、バス会社の経営の問題もという側面もあるのですが、どんどん話が逸れていくのでこれで止めておくことにいたします。
もちろん、廃止されるだけでなく、高速道路の開通や延伸によって高速バスの方に移行した路線も多くあります。

ちなみに余談ですが、国道本線バスの全盛期と今とで同区間の移動速度を比べてみました。
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昔:旧京都交通時代の国道本線特急バスでの京都祇園~天橋立間:3時間5分
今:丹後海陸交通高速バスでの京都駅前~天橋立駅前間:2時間5分
今:JR西日本特急はしだて号での京都~天橋立間:2時間10分
昔:旧京都交通時代の特急バスでの京都祇園~東舞鶴間:2時間38分
今:現京都交通高速バスでの京都駅前~東舞鶴駅前間:1時間50分
今:JR西日本特急まいづる号での京都~東舞鶴間:1時間36分
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国道本線特急バスで行って現代の所要時間プラス1時間くらいです。京都縦貫自動車道が開通し、高速化後のJRの特急と比べてこれくらいの差で行けたならそんなに遅くは、と、京都を知る人なら思うかもしれません。
しかしこれは渋滞がなかった時代のことであり、現代では経路上の街中ではしばしば渋滞が発生するので差は大きくなりますし、時間帯や曜日によっての差も大きいので所要時間増に加えて安定しない(=時刻表通りに走れないことだけでなく、外れ具合の差も安定しない)でしょう。

車内で情報の洪水に流される

以上のことは、ツアーの仕掛け人である京阪京都交通の西村さんとガイド役として添乗していた交通ジャーナリストの鈴木文彦氏作成の資料や車中でのお話に自分の知識や経験を加えて構成したのですが、聞いた話は、路線の盛衰、沿線史、路線バス車両、交通政策など多岐にわたります。

現京都交通舞鶴車庫では、保存されている旧京都交通エアロスターK(国道本線特急バスに使われていたトイレ付き特別車)を見ながら歴史を聞いたり、昭和39年入社でまだ現役で活躍している運転士の話を直接聞いたりする機会もありました。
どの話にも引き込まれるものがあり、学び的にも楽しい話の数々でした。その全てはとても紹介しきれないのでぜひ参加して生で聞いてほしいと思います。

ところで交通ジャーナリストに鈴木文彦氏とはこんな人です(ツアー使用車両の前に並んだ3人の右の人。左は京阪京都交通の西村学さん、中央は運転を担当した運輸部貸切課長の松岡伸彦さん)
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1956年山梨県生まれ。
東北大学理学部を経て東京学芸大学大学院(地理学)在学中に“鉄道ジャーナル”への執筆を始め、そのまま交通ジャーナリストとしてバス、地方鉄道を中心とした公共交通の取材、執筆活動を続け38年。
2000年代に入るころから全国各地の自治体の交通政策や交通事業者のアドバイザー、協議会委員等を歴任するほか、利用促進イベント等のコーディネートも行う。
著書は「日本のバス~100年の歩みとこれから」、「東日本大震災と公共交通」など多数。
バスの実車を保存し後世に伝える“日本バス文化保存振興委員会”理事長。
学生時代に山梨交通で車掌のアルバイトをした経験もある。
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バス業界著名人の世代交代が進まないことや、鉄道にはある大きな博物館がバスにはないことを嘆いていました。
確かに、西村さんたちに聞く話、鈴木さんに聞く話はツアーに参加したから資料も読めたし話も聞けましたが、記録として体系立てた資料は非常に少なく、ユーカラ(アイヌに口伝えに伝わる民族叙事詩)のように断片的に伝えられていることがほとんどです。バス関係の雑誌を読み始めたころから同氏の記事は読んでいますし、単行本も何冊も持っていますが、それではきっと足りないので、頭の中や資料も引き継ぎ残していかねばならないとも思いました。

減る一方だけど今の人たちでまだ賑わう昭和のドライブイン

ツアーが立ち寄った場所で最も印象的だったのは“ドライブイン ダルマ”です。消えゆく昭和の文化遺産だと思っていたのですが、意外にも繁盛していました。
高速道路の開通による交通量の減少、大型観光バスを連ねての慰安旅行の減少などの交通社会情勢の変化のため減少の一途を辿る昭和のドライブイン。私の過去記事でも紹介しているように、京都府京丹波町蒲生にあった“ドライブインやまがた屋”も2020年11月末に60年の歴史に幕を下ろしてしまいました。
今風の言い方をすると「オワコン」というのでしょうか。しかし今回立ち寄ったここはなかなかの繁盛ぶりでした。それも、ドライブインの全盛期をきっと知らないであろう今風の若者ばかりで。

天ぷらうどんの自動販売機、瓶のコーラ、スペースインベーダーやパックマンなどのゲーム、少し新しめなUFOキャッチャーなど、全盛期を知る自分には懐かしすぎて泣きそうでしたが(裏を返せば、そんなムードになるほどドライブインに行っていないということです。減少を嘆くようなことを言っておきながら)、楽しんでいる人たちにはテーマパークのような楽しさがあるのでしょう。
鉄道車両、バス車両、路線などがその代表例だと思いますが、いざなくなると知るや人が殺到し、時として(近年は確実に)その混乱ぶりが報道されるような事態になっています。そして「惜しい」、「なくなって欲しくない」という声が多く取り上げられます。
しかし事業者側からすれば、「惜しむんなら日ごろからもっと乗りに来んかい、利用しに来んかい」と言いたいでしょう。
そう、なくなることが惜しいならなくならないように継続的に利用しろということなのですが、廃止のニュースを聞くまでは思い出すことも少ないのが世の常。かくいう私もその一人。これからは意識していこうと思います。
「いつまでもあると思うな親と金」
「失って初めてわかる親のありがたみ」
です。こんな言葉も昭和レトロになってしまっているでしょうか。
自動販売機にコインを入れて27秒後に出てくる天ぷらうどんをすすりながら、そんなことをふと思ったり、瓶のコーラの自動販売機を前に小学生時代のあれこれを思い出しニンマリしたりするひとときでした。

なかなか複雑な京都のバス事業者の歴史

ツアーの主催者である京阪京都交通の前身は京都交通です。当時の京都交通は京都市内から府北部まで広域な運行エリアを有し、京都祇園の八坂神社のふもとから丹波、丹後へと中距離バスを数多く運行していました。
ところで、京阪京都交通の前身である“京都交通”と今回訪問した“京都交通”は“全く別の京都交通”です。本文中に“旧京都交通”、“現京都交通”と表記しているのはこのため。

京都のバス事業者の歴史はなかなか複雑なので、興味がある方は調べてみてください。似たような会社名があちこちに出てくるのでなかなか混乱して楽しいですよ!
ツアーの道中では旧京都交通時代の面影残るバス停を何度か見ました。

充実の資料とおみやげ

車内で配られた資料は路線(沿線)の歴史解説冊子、往時の路線図、時刻表、バスの写真などとても充実しており、それだけでもなかなかの値打ちものでした。特に歴史解説には沿線の歴史とバス事業者やバス車体の歴史も記載されているので、バスファンにも嬉しい資料となっていました。また、舞鶴市内路線バス乗り放題の“舞鶴かまぼこ手形”、運転士個人撮影の写真ポストカード、京都交通のクリアファイル、ツアーバッヂ、ボックスティッシュがおみやげとして添えられていました。そんな心遣いもすてきです。

ツアーに使用されたのはこの車両

使用された日野セレガ(U-RU2FSAB・1995年式)は京阪バスからの移籍車。現在は京都大学キャンパス間輸送の予備車両になっており、京阪京都交通最後の初代セレガです。
京阪バス時代は定観車(定期観光バス用車両)として使われていたため出入り口ドア横にはコースを表示するためのサボ(サインボード=行き先やコースを表示する板)差しと方向幕の窓が残っています。

乗合登録車はフロントに丸い車紋のエンブレムを装着、貸切登録の場合は車紋はなく金文字の社名表示が標準の仕様なのですが、この車両は方向幕による青文字の社名表示に車紋エンブレムなしという珍しい仕様です。このため近づくと“京阪”の楕円エンブレムの撤去跡と固定のための4つの穴が見えます。
余談ですが、定観車は走行距離が短い(1日2回走行しても市バス205系統2周分程度=どのくらいか想像してみて下さい!)ため長生き傾向だそうです。とは言ってもこの車両も来年にはなくなる運命にあるとのことでした。

残念ながら出番がなかった車両は日野セレガR(KL-RU4FSEA・2004年式)。前所有者の面影を色濃く残す車両です。写真は2020年2月15日に西日本JRバス所有のガーラV12(641-8953号車)さよなら乗車会の時に撮ったカットです。尚、その時の模様はこちらをご参照下さい。
【西日本JRバス、V12エンジン搭載いすゞガーラV12のさよなら乗車会を開催】
https://carsmeet.jp/2020/03/17/143948/

今回の気づきまとめ

1.バス路線の盛衰
1950年代から急速に路線を延ばし、1960年代にピークを迎えて以降は衰退の一途を辿るバス。全盛期は各社が次々に路線免許申請をしていた。
そんな時代を終らせた大きな要因は、モータリゼーションの進展による乗客減と交通渋滞による定時運行が困難になったこと。
乗客が減るから減便する、そうすると不便になるから乗客はさらに減る、という負のスパイラルに陥った。
渋滞を避けるために渋滞多発地帯で路線を切り分けたことによる不便さもあった。
一方で、イケイケの放漫経営によって経営破綻する事業者も続々。副業の失敗による破綻も多かった。まさに1990年代の日本経済のバブル崩壊と同じようなことが1960年代のバス業界に起こっていた。

2.バス車体のバリエーションが減って趣味としてはつまらなくなった
かつては、走行路線によって特別な車両(通行するトンネルの断面に合わせた西武バスの“三角バス”、路線車なのにトイレ付き仕様、路線車なのに山間部対応の高出力エンジン搭載等)が数多く存在した。事業者それぞれの好みの仕様や、柔らかめシートクッションや座席レイアウトの採用など利用者のことを思った仕様も数多く存在したが、今はもうない。
理由は、“交通バリアフリー法”の施行と“国交省標準仕様ノンステップバス”の登場だ。
これにより、大型路線バスは車体の長さなどの違いはあっても基本ボディデザインは2種類(2社だから)しかなく、中型小型路線バスに至っては1種類(1社)しかない。座席レイアウトも既製の3種から選ぶしかないなど新車として導入される車体は全国どこも同じ。カラーリングの違いしかない。車種も整理、削減が進みかなり少なくなっている。
これはバス趣味をつまらなくしているだけでなく、「新車は座り心地や乗り心地が悪いね」、「乗りにくいね」と、趣味人ではない一般利用者にもある程度の不便を強いている部分もある。
事業者にとっても、後継車種が存在しないことが悩みの種になっている。
厳密に言うと、国交省標準仕様のんステップバスでなくてもかまわないのだが、補助金を受けようとすると標準仕様にしなければならない。赤字事業者が多く、補助金なしでは新車導入がままならない事業者がとても多い昨今では選択肢はないと言ってよい。

3.バスの歴史はバスだけの歴史に非ず
沿線の歴史や経済・社会情勢も合わせて聞いているうち、バスやバス路線の話はそれらとリンクし、映す鏡だと思えるようになってきた。

そんな感じで、今回も学び多きツアーでありました。

(取材・写真・文:大田中秀一)

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