LE VOLANT モデルカー俱楽部

”I’m The Boss!”炸裂するモノグラムギャノン砲!大きな子供たちのプラモ革命が始まった…【アメリカンカープラモ・クロニクル】第40回

1982年 ワーズワースの虹

子供たちがプラモデル趣味に対して冷ややかならば、大人を相手に商売すべきである。

とても明快だが、あるビジネス戦略を要約してみせたにせよこれはひどく直線的で、刃物と同じ冷たさがある。では、少しだけトーンを調整し、このように言い直してみよう。

子供たちはいま、プラモデルではなくビデオゲームの画面に首ったけである。ならば、子供たちが見向きもしない場所で、われら大人はひととき童心に返ろうではないか。

【画像83枚】誰も知らないカープラモ革命の足跡を確認する!

1982年、モノグラムは子供心を理解しているふりをやめ、几帳面で大人っぽい、精密なプラモデルを市場に送り出した。1/24スケール、テーマは’70フォード・BOSSマスタング。テーマの年式が示す当の1970年、MPCが品番1370をつけたアニュアルキットとしてすでに世に送り出していたテーマである。1970年といえば、モノグラムはMPCのライバルとは到底目されないようなフィールドで、ハウスデザイナーのトム・ダニエルが描いた荒唐無稽な線を金型に彫り込んでいた頃だ。

もっと踏み込んでいえば、続く1975年、amtからモノグラムへやってきたばかりの新しい社長が古巣での経験をもとに「これをプラモデル化すれば売れるぞ!ずっと売れる!俺はよく知ってるんだ!」とトライファイブ・シボレーのキット化を主張したものの、当時まだ未成熟だった組織の体制・システムとうまく折り合いがつかず、amt時代のような一級の資料をそろえることにも難儀して、古いトム・ダニエルによるバッドマン・ファニーカー(’55シボレーをベースとした架空のドラッグマシン)の焼き直しからプロジェクトをはじめざるを得ず、結果新しい金型の’57シボレーもまことに不本意なキットとなって市場の失望を買った時期が続いていた。

「もともとamtで活躍していた社長」という共通項を持つMPCのジョージ・トテフの万事周到ぶりに較べると、amtとモノグラム、勝手次第のあまりの違いに会社は混乱をきたしていたといってよい。瑣末な混乱を避けるためにわざと遅れていうが、この社長の名はトム・ダニエルと同じファーストネームを持つトム・ギャノンといった。

かつてamtの二代目社長だった時代から、トム・ギャノンは有能なビジネスマン然とした風格の漂う人物で、モノグラムの持ち株会社であったマテルの総帥、レイ・ワグナーのお気に入りだった。1960年代末、あきらかに斜陽にあったamtにおいて、オールアメリカン・ショー&ゴー・キャンペーンという一大物量作戦を果敢に展開・成功させ、セミトラックとセミトレーラーあわせて10ドルにもなる巨大なプラモデル群をビッグな成功に導いて、ホビー市場にまったく新しいセグメントを切り拓いてみせた辣腕である。

彼を引き抜いたレイ・ワグナーが、単にビジョナリーを気取った凡庸な人物であったなら、モノグラムの運営はトム・ギャノンに放任され、amtによく似たまがいものになっていた可能性もある。しかしモノグラムにはまだ未熟な体制が残り、マテルはどこまでも強権的であって、「プラモデルとは玩具であり、子供のものである」というポリシーをモノグラムに強要しようとした。

1960年初出の古いホットロッドのキットから、そこに凝縮されたモノグラムの「性格」を考えてみよう。ホットロッド・マガジン誌1959年10月号の表紙を飾ったスーパーチャージド・ショーピース、グラスホッパーを模型化しながら、ビルダーの2人のジョン(ジェラハティーとクロウフォード)には1セントの対価も支払わず、飛蝗でなく蜂と言い張った。時代の大らかさより、amtらデトロイト勢や、ライセンス取得に意欲を燃やすあまりSEMA(旧スピード部品製造者協会)設立に深く関わったレベルとの「育ちの違い」に注目。(品番PC61、写真はリイシュー版)

トム・ギャノンは勝手の違いにとまどいつつも、すぐに上からの押しつけも下からの反発も巧みにコントロールしはじめ、この隙間に「モノグラムから発売される製品点数を倍に増やす」というまるで分厚いマットレスのような戦略をはさみ込んだ。トム・ギャノンの主張は重役会議の席上、たいへんシンプルに響いた。「発売点数を2倍にすれば、売り上げは2倍になります」――突き崩すポイントをみつけることがかえって難しい、虚を突くようなシンプルな理論である。

とかく管理体制を強化したがるマテルは倍に増えた製品すべてをおのずと把握しづらくなり、現場の仕事は倍増するが、そこに「本当にやりたいこと」をすべり込ませる余地もまた生じる。トム・ギャノンは両者を軽率に引き会わせて、握手をしろだの抱擁しろだの、殴り合いになる寸前まで徹底的に議論しろなどとは決していわない、決してさせない、すべて引き受けるタイプのアンダーボスであった。

オーロラからのフィードバック
責任感ゆえのトップダウン傾向も強く、つねに自信家として振る舞ったトム・ギャノンに唯一できなかったことがあるとすれば、それは自身の模型への愛を、誰かに正直に打ち明けることくらいであった。

こんなエピソードがある。

1980年にニューヨークの老舗模型メーカー、オーロラ・トイ・カンパニーが廃業する数年前、数々の「伝説的な」プラモデル金型が売りに出された。このときトム・ギャノンは素早く行動し、マテルから借金をしてまでこれらの金型を買い取ってしまった。

破格の安値で流出しようとしていたこれらの金型が、もし無責任な投資家、新興企業、あるいは短期的な利益だけをあて込んだ流通企業に買いたたかれれば、この業界の先駆者たちがこつこつ培ってきた健全な体質はすぐさま崩壊する……トム・ギャノンの懸念とそれにもとづく即断・行動は、オーロラの大看板を恥辱の泥にまみれる危機から救うことになった

(余談ではあるが、オーロラの金型はモノグラムへと輸送される陸路の途上、未曾有の鉄道事故によって一部が永久に損なわれてしまった。しかし、この事故に対して支払われた多額の保険金は、モノグラムがマテルから受けた融資の大半を帳消しにするほどの額に及ぶという皮肉な展開をみせた)

晴れてモノグラム・バッジをつけた旧オーロラ金型製品は、トム・ギャノンの打ち出す販売点数倍増プロジェクトの一翼をなし、プラモデル愛好家にモノグラムの名を強く印象づけながらその支持をひろげ、モノグラム製品の販売成績を堅調に好転させていった。

ポイントになったのは、買い取ったオーロラ金型に多数含まれていたアストンマーティン・DB-4やフェラーリ・GTO、ジャガー・XKEといった1/25スケールの、1960年頃という制作時期を思えばたいへんに立派なスケールモデル金型だった。モノグラムによって1978年から再版されはじめたこれらのキットが、期待以上の好評をもって市場に受け容れられたことが、他ならぬモノグラム自身に強い影響と無視できないフィードバックを与えた。

来たる1983年、マテルの総帥レイ・ワグナーがついに一線を退くことを決めたとき、モノグラム/トム・ギャノンとそのチームは子供心を理解しているふりをやめた。むしろ彼とそのチームは、ある種の「内観=内なる問いかけ」によって、現状に対するフラストレーションをかかえた自らの童心を見つけ出し、その期待するところを正確に把握した。ビデオゲームに首ったけの生理学的子供たちが内に隠し持つ欲望より、はるかにリアルに感じ取ることができ、正確にリサーチ可能な欲望――

もっとリアルで正確で、精密なカープラモが欲しい。

テーマは古くていいんだ、だが金型が古くてはだめだ、新しい設計でないと。

この明晰で、じつのところ単純な気づきは、ただちにモノグラムを行動に移らせた。

アニュアルキットを避けてきたがゆえに
1958年のamt/SMPを端緒とするアニュアルキット・ショック、それ以降に起きた空前のアメリカンカープラモ・ブームにも、モノグラムはこれまでずっと一定の距離を置いてきた。デトロイトの政治が牛耳る製品化ライセンスの壁は、どこかボルジア家の権力を彷彿とさせるものであって、あれは許さぬ、これは許さぬ、これを作れ、あれを作れという指図がましさは、当時の未熟なモノグラムに耐えられるものではなかった。

権力の中枢に忠実なるDタウン・ネイティブの会社が過去にキット化し続けたアニュアルキットは(一部を除いて)いまやすべて絶版、排他的ライセンスはことごとく切れており、すべては1/25スケール。モノグラムがこれまでこだわり続けてきた1/24スケールで仮に同じことをやったとしても、それはすべてが別物(本連載第9回参照)ということになる。

モノグラムにはアニュアルキットの経験がないゆえに、amtやMPC、ジョーハンらを苦しめた古い金型の「キャリーオーバー」問題がなかった。古い金型をどうしても活用せねばならない、しかしコストがかさむのは避けたい、キャリーオーバーとはこうした葛藤が生む「妥協」である。完成後に見えにくくなるインテリアやエンジンフードの下にそれらは巣喰い、ひとつの金型をアニュアルリフトに合わせて改造したキットには必ずといっていいほどついてまわった。

例を挙げれば、amtやMPCのフォード・マスタングはアウトフィットの変更に追われ、市場の退潮に予算を削られて、新しい335シリーズ・エンジンや351クリーブランド、リマ工場製385ビッグブロック・エンジンなどへの適切な変更、正確な追従はおろそかにされるのが当たり前となり、省略やアセンブリーの誤りなども指摘しだしたら枚挙にいとまがないほどになっていた。傍目八目とは申せ、一介の模型ファンを兼ねたままモノグラムに籍を置いていた「彼ら」の視線には、こうしたことがかねてよりはっきりとした不満と映っていた。

「彼ら」の名をここでふたりほどはっきりさせておくと、ロジャー・ハーニー、ボブ・ジョンソン――ふたりはモノグラム生え抜きの実務マネージャーとして、トム・ギャノンの手厚い「保護」の下、1977年にはダットサン・280Z、フォード・ヨーロッパのカプリ、より近いところでは1981年初出のBMW・635CSiといったキットの開発により、むしろアメリカンカープラモ市場とは呼びにくい領域において成功をおさめていた。

イギリスから突然やってきて、アメリカ市場で似たような方法論を試そうとして失敗したレズニー/マッチボックスとは逆に、アメリカ仕込みの精密さを詰め込んだ1/24スケールの「輸入車」キットを、マテルの強力なネットワークを駆使して、1970年代後半という時代に「輸出」していたのである。もちろん外貨だけがその成功の鍵であるはずもなく、モノグラムの営業チームは、大手小売のなかでもホビー分野に高い関心をもつKマートを筆頭にモノグラム専用の陳列スペースを割いてもらえるよう粘り強く交渉し、成果を挙げていた。

総指揮を執るトム・ギャノンの仕事は、こうした成果の背景、アメリカンカープラモの愛好家には直接見えにくい裏方の領域において着実に稔りつつあった。トライファイブ・シボレーの不首尾以降、ローンレンジャーのような振る舞いを自らに戒めるようになった彼は、自身の興味あること以外はすべて無意味でくだらなく思えてしまう「マニア」には決して評価されない「かったるい仕事」――モノグラムという組織の未熟さをひとつひとつ解消していくことをこそ重視し、日々判断し、ルールを決めてチームに割り振り、指示を与え、効果を測定し適切に評価し続けた。ときには執務室を飛び出して、上から予算をもぎ取って帰ってくることもあった。

モノグラムというビジネスを構成するシステムは1980年を迎える頃までには高度に洗練され、なにを打ち出しても底堅い結果を出せるまでになっていた。

トム・ギャノンがこつこつ築いたシステムに、ロジャー・ハーニーやボブ・ジョンソンらが積み重ねた知見、技術、新たなマーケティング・フィードバックが組み込まれ、1980年代という新しいディケイドを迎えるにあたりモノグラムはついにアメリカンカープラモへと昇華する方向へと舵を切った。

名実相伴う真のBOSSへ
1981年のうちに発売が予告されたモノグラムの1/24スケール ’70フォード・BOSSマスタングは1982年に無事発売された。並行して’70プリマス・ヘミクーダ、それに’70シボレー・シェベルSS454が続けざまに発売されたが、それらはここではいったん置く。

正確に再現された429エンジンを積むモノグラム・BOSSは、デトロイトに頭を下げることなく、モノグラム独自の取材と採寸セッションによって得られたデータを元に設計され、一部組み立てやすさに配慮した簡略化はあるものの、きわめて調和のとれた名作と呼ぶにふさわしいキットに仕上がった。アニュアルキット時代の経験や、古い金型といった負の遺産なきがゆえの、モノグラムにしか生み出せない成果物であった。

振り返ればトム・ギャノン社長就任後の混乱期に、やはりデトロイトの一次資料に頼ることなく、なにもかも未熟だった体制が早産させてしまったトライファイブ・シボレーとはまったく違う賞賛が、BOSSマスタングには数多く寄せられた。その多くは大人たちからの賞賛ではあったが、その言葉のはしばしに、子供のようなうれしさがあふれていた。キットはまるでプラモデル市場に、Kマートの売り場に子供たちの群れが帰ってきたかのような売れ行きをみせた。

’70 BOSS429の実車をこころよく取材に提供してくれたオーナーに誘われて、採寸セッションの少し前にこの車に同乗してドライブに出かけたモノグラムの設計スタッフ、デイブ・ジョーンズは会心の笑顔でドライブから帰ってきたという。彼の童心に返ったような笑みは他のスタッフにも成功を確信させ、市場にもそれはじつにうまく波及した。新しいモノグラムが次に挑むべきハードルはこれによってはるかに高いものになったが、モノグラムはもはや身も心も、そんな挑戦を忌避するような過日のモノグラムではなくなっていた

トム・ギャノンは自身のたゆまぬ模型への愛を、練り上げられた製品とそれをなめらかに送り出す仕組みの確立によってのみ、多くの人々に伝えるすべを手に入れた。

黙して多くを語らない、いつまでも有能なビジネスマン然としたトム・ギャノンは、2005年、惜しまれながらこの世を去った。

アメリカンカープラモ趣味に人生の多くを捧げたビルダー、著名なカスタマイザー、自動車競技のヒーローたち、そして模型メーカー各社においてすばらしいキットを生み出すことに多大な貢献をした者たちの名を、インターネットの片隅でひっそりと顕彰するインターナショナル・モデルカー・ビルダーズ・ミュージアムのメモリアム・ページには、彼の名がいまも掲げられている。

模型への愛情を、へたな物差しを使った瑣末な競い合いや、声高で雑な主張に置き換えることもなく、キットを生み出す現場を守り育てることにただ注力し、ローンレンジャーの突出を許さず、頼りになる騎兵隊の数と質をそろえることに生涯を捧げた男の名は、忘れ得ぬ模型仲間のひとりとして、静かな尊敬とともに思い起こされている。

一度みなさんもご覧になるといいだろう。

 

※今回のキット画像は一部を除き(例外は下記の通り)アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました。
※また今回、『グリーンホーネット』『バッドマン』の画像を、読者のjunさんからご提供いただきました。
ありがとうございました。
※『’55 CHEV』『ファストバック』『’69ポンティアックGTOジャッジ』は、筆者および編集者の個人所有物を撮影したものです。

撮影:秦 正史

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