~1983年 カリフォルニアの漂流者

本連載はレベルに冷淡である、とよく意見が寄せられる。実際そのとおりだろう。

では、レベルの側はどうだろう。むしろ彼らのアメリカンカープラモに対する取り組みこそ、どこか一貫性を欠いた冷淡さがなかったか。

【画像85枚】レベルの流浪の靴が歩んだ足取りを見る!

レベルとアメリカンカープラモとの蜜月は、すなわちエド・ロスとの蜜月であったと言い換えてもいい。本連載がいま横断中の1983年から20年あまり前、1962年のことだ。レベルから登場した彼のワイルドなショーピース「アウトロー」の精密なキットは衝撃をもって市場に迎えられた。

事情に疎い田舎の少年たちには、この見馴れないキットのテーマがはたして車のことなのか、それとも切り抜かれて小さく掲げられた髭男のことを指すのか、一瞬判断がつきかねたことだろう。しかしこのキットはセンセーショナルな爆風をともなって驚くべきセールスを記録し、エド・ロスの車と彼の創作したキャラクターは次々にキット化され、その蜜月は1965年まで続いた。

この期間、レベルにはさまざまなことが起きた。本連載第12回に大きく取り上げたデトロイト・アニュアルキットへの挑戦と挫折はとりわけ印象深い事件であり、レベルのビジネスプランに大きく暗い影を落とした。

自動車そのものを日々吐き出し続ける永久機関・デトロイトはレベルの味方ではなかった――それでも「オフィシャル」「ライセンス」の頼もしさに魅せられるレベルは、地元カリフォルニアの名士たち、ホットロッド・カルチャーを支えるスピードショップのオーナーたちに接近を試み、あれよあれよという間にSEMA(旧スピード・エクイップメント・マニュファクチャリング・アソシエーション、現在のスペシャルティー・エクイップメント・マーケット・アソシエーションの前身)の結成に巻き込まれ、その設立趣意書と宣言文を書かされるはめになった。

アニュアルキットの雄・amtがデトロイトと深くつながることでファクトリー・メイドの車を次々とキット化したように、レベルはホットロッド・キットの文字どおり「オフィシャル・パーツ」を手がけるようになり、そうしたパーツの集合体ともいえる非デトロイト的な車をスピード&ショー・シリーズと銘打って展開するようになっていった。

まだデトロイトのアニュアルキットに魅力と力があり、そのオルタナティブもまた力強かった頃の、古い話である。1960年代後半ともなるとこれらの人気はみるみる失速、1970年代に突入すると、デトロイトもカリフォルニアも「失業状態」と呼んで差し支えないほどの苦境を味わうことになった。

小さな車を作る以外これといった取り柄もないデトロイトの模型各社は、その食い扶持を死守することに躍起となり、amtは外国資本、MPCはシリアル・コングロマリットの大樹に身を寄せて身を保ったが、レベルには車だけではない総合模型メーカーとしてのきわめて限られた柔軟性だけが生き残るすべであった。

エド・ロスによるショーロッド、アウトローのレベル製キット(写真は再販版、品番85-4173)に見られるキャデラックV8。エンジンブロックは3分割だが、下部のパーツにはなんとクランクシャフトが一体モールドとなっており、上部のパーツにはシリンダー形状が彫刻されている。シリンダーヘッド側にも燃焼室のモールドがあり、バルブや組み付けボルトの孔、オイルライン等の再現もされているという、大変な凝りようだ。髭男ではなくディカプリオ似の彼がニッコニコなのも当然であろう。これこそが、レベルの持ち味であるアキュラシーなのである。

プラモデルを、とにかくプラモデルを作り続けなくてはならない。それが車であれなんであれ。

レベルは限られたリソースを航空機、艦船といったセグメントにも割かれ、そのどこにも決定打を見出せないまま不振にあえぎ続けた。ライバルの模型各社が外在する製品化ライセンスに頼ることなく、自社デザイナーに描かせた自由な描線をそのまま金型に転写することによって製品化コストを抑える動きに走ったとき、レベルは幸いデイブ・ディールという俊英イラストレーターを味方につけ、MPCのジンガーズともモノグラムのトム・ダニエル・コレクションとも違う味わいのカリカチュアカー・キットを次々に生み出し、苦しい状況はひとまず小康を得た。

しかしそれとて長くは続かず、レベルの迷走は続いた。

迷走からフレンチ・コネクションを経て――
のちに1/1スケールのファイバーグラス製ホットロッド・ボディーを扱うファクトリーの長となるダレル・ジップが1969年に開発ディレクターとしてやってくると、レベルは急速にファニーカーをキット化する路線へと傾倒していったが、これは結果として、目新しく見映えのするチルトアップ・ボディーをプラモデルの派手なギミックとして消費するだけの展開につながった。

実際のファニーカー・シーンは日進月歩の技術革新とシビアなレーシング・リザルトがせめぎ合い、関与する何者も立ち止まることを許さないほどの状況になっていたが、ダレル・ジップ体制のレベルはそのリアリティーをすべてのキットに反映させることができず、どこかぼんやりした夢を妥協で割ったような架空のカクテル・ファニーカーばかりを連発して市場の不興を買った。

これは1970年を迎える前にレベルを去ったベテラン・マネージャーのジム・キーラーとボブ・パスの不在がもたらした、スケールモデルキットメーカーとしての平衡感覚や社内の調整能力の失調であるといえた。

1980年を迎える頃、多額の赤字をかかえて疲弊したレベルは一時的にフランスの玩具ブランドであるコンパニー・ジェネラル・デュ・ジュエ(通称CEJI)に買収されるも、わずか3年足らずのうちにこの関係は解消された。巨大アメリカ市場への足がかりを求めてamtを買収したイギリスのレズニーがすぐに経営破綻してしまったように、フランスのCEJIもまた抜き差しならない経済的困難を隠しており、同社は1985年に経営破綻を迎えることになるが、これはレベルの運命とはまた別のストーリーに過ぎない。

CEJIとの関係を解消した1983年、たどり着くべき岸をふたたび見失ったかにみえた漂流者レベルの手には、ひとつ重要なヒントが握られていた。

不評続きの新規アメリカンカープラモ開発、そこを埋め合わせるため一時のモノグラムのように短いスパンでくり返される焼き直しのなか、たったひとつ市場が快哉を叫んだキットがあった。1975年、レベルのみならずデトロイト勢にも暗いムードが漂うなかでレベルが放った”リル”・ジョン・バテラによる’26フォード・T・ストリートロッドである。

「この頃のレベルは無気力そのもの、ただし、このキットを除いて」

辛辣な愛好家のひとりにそう言わしめるこのキットは、あきらかにストリートロッド・キットの新しい基準を打ち立てる、前例のない凝った内容をもっていた。

幸運を運ぶキャッツフット
まず特筆すべきは、足まわりに配されたジャガー独立懸架式サスペンションだった。1961年来のジャガーを定義づける重要なコンポーネントとして知られるこの「俊足」は、自己完結した汎用性の高い機構としてアメリカのホットロッダーにも愛されていた。1/25スケールでのパーツ化はレベル自身によるジャガーそのもののキット化を除きこれが初めて、レベルのキットはやはりパーツとしての魅力をもって愛好家の熱い注目をあつめた。

いつか来るその日のためにと数々のアニュアルキットを温存し、その簡略化された足まわりをうらめしそうに眺めるばかりだったビルダーは、レベルからの突然の贈りものを賞賛したが、ロッギ・スタイルのデュアル・チューブ・フレーム・シャシーに正確な289コブラ・エンジンを積んでみせた初の’26ストリートロッド・キットであるという一事をもってしても、このキットは快哉を叫ぶに値する一流のものだった。

レベル製ジョン・バテラ・ストリートロッドの車体下部に覗くリアサスペンション。ドライブシャフト自体にアッパーアームを兼用させる変則的なダブルウィッシュボーン・サスペンション、インボード配置としたディスクブレーキなど、ジャグ・リアエンド(ジャガーの後車軸周りを意味するロッド用語)の特徴がハッキリと見て取れる。ジャガーのこの形式のサスペンションはEタイプで特に有名だが、初代XJサルーンにも使用され、XJSにまで受け継がれた。それだけ数が多く出回っており流用も容易ということである。

ジョン・バテラの名はすでに充分尊敬すべきホットロッド・ビルダーとしての知名度を確立していたが、どちらかといえばデザイナーよりエンジニア的である彼の個性は、かつてのエド・ロスとはまた違ったレベルとの好相性を示していた。

エド・ロスの時代がもたらした熱狂と較べれば、ジョン・バテラのキットがもたらした反響はごくささやかなものだった。しかし寄せられたフィードバックは熱く、漂流するレベルに灯台のごとく強い光を投げかけた。

考えてみればこれは、エド・ロスのキット群と同じ「構造」をもったヒットなのだ。デザインと造形にその最大の魅力があり、ビルディングにおいては理想のアウトフィットを求めて両手をパテまみれにし、芸術的なペイントもぬかりなくこなすエド・ロス、かたや塗装が苦手、電気系の処理が苦手、おまけにミシンも大嫌いだが、機械的アプローチにかけては誰にもひけをとらないジョン・バテラ。個性こそ違え、魅力的なマシンを一貫して作り上げる才能とレベルが出会うとき、キットは必ずすばらしいものになった。

レベルにはSEMAとの厚誼、かつて大ヒットを記録したパーツパック・シリーズで培った知見があり、キットのディテールを練り上げることにかけては卓抜したセンスがあった。思えばレベルがはじめてヒットの甘きを味わったビッグ・ダディーのアウトローには、やはり他のキットにはまったくみられなかったOHVのキャデラックV8エンジンが据わっていた。

それから14年の迷走を経て手がけたリル・ジョンのストリートロッドにはジャガーの独立懸架式サスペンションがあった。

あれもこれもと目移りするなかでそうした細心の注意を忘れてみるみる消耗し、自らは過去どんな仕事で成功をつかんできたか、そもそも自分はいかなる才能の持ち主なのかすら振り返ろうとしなかったレベル、めまぐるしく変転するアメリカンカープラモ業界にとって、いてもいなくても同じになりかけていたカリフォルニアの「波に乗れないサーファー」は、両手指に宿るたぐいまれな器用さと、ディテール・オリエンテッド(精密主義)最良の担い手であった記憶を、このとき確実に取り戻しつつあった。

放浪の果てに見た景色は
1983年、アメリカは2年前に就任したロナルド・レーガン大統領によって打ち出された新しい経済政策を追い風に、さまざまな業界において巨大な再編のときを迎えつつあった。

レズニーの経営破綻という衝撃によって投げ出されたかたちとなったamtはこの年、ビッグリグのキット化競争において鍔迫り合いを演じたアーテルに買収された。アメリカでは決してあなどれない市場規模を持つ農業機械のミニチュア――ファーム・トイの世界で並びなき寡占企業として君臨するアーテルに請われるかたちで、amtの短い放浪は一応の決着をみた。

呪わしい1962年の蹉跌以来、長引く不振に苦しみ続け、小さな挑戦すらままならず、起死回生の一撃と呼ぶに足る成功にもいまだ到らないまま、レベルの漂流はまもなく終わりを迎えようとしていた。まだおぼろに霞む岸は、なつかしいカリフォルニアの砂浜ではなく、あまりに遠いデスプレーンズ川の鬱蒼としたほとり。

ここには、これまでずっとレベルが背を追い続けたライバルのひとつ、モノグラムの第二工場があった。

 

※今回、「”T”バケット」「同『Happy Days』」のキット画像はアメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました。
※また今回、「バハ・ハンバグ」、「ゴーマッド・ノマド」、「’57シェビー」、「ファンバード」の画像を読者のHide Tさんからご提供いただきました。
※同じく、「アウトロー」の完成品画像を、読者のOGURAさんからご提供いただきました。
※同じく、「’27 Tツーリング」の箱側面と説明書、「’26 Tデリバリー」の箱側面、「’26セダン・デリバリー(ストリート・デモンズ)」の箱、それぞれの画像を読者の瀧上徳和さんからご提供いただきました。
※同じく、「’26 Tストリート・ロッド(第二版)」の画像を読者のsu344さんからご提供いただきました。 
ありがとうございました。