コラム

【愛車と原体験】図面はプラモデル!? 整備職人が完全自作した6輪F1「タイレルP34」驚愕の製作工程と全貌《LE VOLANT LAB》

夜な夜な作られた「走る6輪F1」。スーパーカー世代の究極のDIY

整備工場の片隅で育ち、スーパーカーブームの洗礼を受けた少年は、やがて凄腕のレストア職人となった。彼が本業の傍らで挑んだのは、なんと伝説の6輪F1「タイレルP34」を1/1スケールで完全自作するという常識破りのプロジェクト。図面代わりは市販のプラモデル、心臓部にはスズキ・ハヤブサのエンジンを搭載し、実際にサーキットを駆け抜けるというから驚きだ。驚愕の製作工程と、次なる目標「ロータス79」へ続く異常なまでの情熱に迫る。

若き日はバイクレースに没頭。あの天才ライダーとの出会いと挫折

原体験がその後のカーライフに大きな影響を及ぼすように思えてなりません。今回取材した綿引雄司さんが幼少期に住んでいた家の敷地には、父親が営んでいたクルマの整備工場があったそうです。そうなると、必然的に工場のなかに置かれているクルマが視界に入る幼少期を送ることとなります。

そして少年時代にスーパーカーブームの洗礼を受けた綿引少年。やがて大人になり、憧れだったスーパーカーを手に入れ……ではなく、綿引さんは父親の家業を継ぎつつ、クラシックカーやスーパーカーをレストアする生業へとシフトしていくのです。ここで得られた知識や技術をもとに、本業の合間に往年のフォーミュラカーを手作りするというプロジェクトをスタートさせます。

驚くべきは、手作りでフォーミュラカーを製作するだけでなく、なんとサーキットが攻められるレベルにまでクルマのセッティングを煮詰め、ついにはレースに参戦するまでに……。現在、2台目のフォーミュラカーの製作に着手しているというモノづくりへの情熱についても伺いました。

【画像29枚】驚異の作り込み。アルミ叩き出しのボディとハヤブサエンジンが宿る自作「タイレルP34」の全貌を見る

「カスタムビルド&レストア WATAHIKI」代表・綿引雄司氏と、自ら手作りした「タイレルP34」と「ロータス79」。

――綿引さんがクルマを好きになったのは何歳頃でしたか?

現在の会社の屋号は「カスタムビルド&レストア WATAHIKI(CBR WATAHIKI)」ですが、もともと父親が「巴自動車商会」という屋号でクルマの整備工場を営んでいたんです。工場の奥が住まいだったこともあり、出掛けるときには敷地内にあるクルマを見て育ってきました。幼少期から「クルマがある日常」を送ってきたので、物心がついたころから、ということになるんでしょうね(笑)。

――綿引さんご自身もいつかお父様の後を継ぐおつもりだったのですか?

小学生の頃には、漠然と……ではありましたが「いつか俺もここで仕事するんだろうな」と思っていた記憶があります。その後、親への反発というか、若気の至り(笑)というか。すんなりとは修理工場を継がずに、二十歳前後からオートバイのレースに参戦するようになったんです。今から40年くらい前のことですね。この頃は「家業は継がず、将来はライダーとして成功して食っていこう」と思っていた時期でした。

1枚モノであることが分かるタイレルP34のカウル。身長170cmの綿引氏と並ぶとその大きさが分かるだろう。

――どのようなカテゴリーのレースに出ていたんですか?

当時、市販のバイクをベースにしたレースカーでエントリーできる「SP250」と「SP400」のカテゴリーがあり、ヤマハの「TZ250」をレース仕立てに改造したバイクを手に入れ、筑波サーキットで開催されるレースに2年ほど参戦しました。

「ノービス250」というクラスでデビューしてジュニア(国内A級)から国際B級へとステップアップしていくんですが、1年でジュニア(国内A級)にあがれたんです。このクラスでもポイントを稼いでさらに上のクラスに昇格できたんですが、そうなると、今度は草レースにエントリーできなくなってしまうんです。

大勢の人がレースに参加していたので、「ノービス250」クラスだけで180台ものエントリーがあった時代です。予選を勝ち抜いた上位30数台が本戦にエントリーできたんですが、そのなかで私は30番手前後。ギリギリ予選を通過できるレベルでした。

ちょうどその頃、10代だったノリック(阿部典史)が同じカテゴリーに参戦していて、もうまったくレベルが違うんです。レースのバイクに使用していたタイヤメーカーは主にヨコハマとダンロップ、それにブリヂストンの3社でしたが、ノリックをサポートしていたのはヨコハマでした。私も実際に使ってみて分かったんですが、ヨコハマタイヤの特性はグリップ力も良いけど、どちらかというと「滑り」をコントロールできるタイヤなんですね。

ノリックはバイクでドリフトしているかのようにコーナーを駆け抜けていくんです。私はこのとき20代半ばで、ノリックはまだ10代。自分よりも若い彼の走りを見るにつけ、圧倒的な才能の差を見せつけられました。プロのライダーとして食べていくことを断念して、草レースに専念しようと思ったのもこの頃でしたね。

――バイクのレースに参戦したとき、お父様はなんておっしゃっていたんですか?

父親は心配性なところがあるので、バイクのレースは趣味程度にやっていると思わせておいたんです(笑)。もちろん、当時の私がレースで食っていこうと目論んでいたことは伝えませんでした。

このタイレルP34の姿を見る限りでは、手作りとは思えないたたずまいだ。

スーパーカーブームの洗礼と、独学で身につけた板金技術

――改めて、綿引さんがクルマ好きになった「原体験」は何でしたか?

しいていえば「スーパーカーブーム」になるんでしょうね。ちょうどスーパーカーブーム直撃世代で、晴海で開催されたスーパーカーショーにも行ったし、街中でカメラ片手に撮影した写真も残してあるはずです。当時のフィルムカメラは、いまのデジカメと違って24枚撮りとか36枚撮りとか、1本のフィルムで撮影できる枚数に制限があるから、慎重にシャッターを切った記憶があります。現像代や写真のプリント代も高かったですよね。

――スーパーカーブームの頃のスーパーカーの魅力って何だと思いますか?

当時の日本車と比較したら、デザインだけでなく性能も異次元なわけです。おそろしく車高が低く、さらに幅も広くて、最高速度が300km/hも出る(らしい)。UFOみたいなクルマが目の前にあったら、子どもはイチコロなわけですよ(笑)。個人的にはデ・トマソ・パンテーラが好きでしたね。当時のお小遣いが1000円で、何年貯めたらパンテーラを買えるか計算してみたこともありました(笑)。実際には使ってしまうから途方もない時間が掛かるんですけどね。

小さい頃にスーパーカーブームを経験した僕たちの世代は「いずれ仕事で成功してスーパーカーに乗ってやる!」と、野望を抱いていた人が多かったように思います。大人になって、私は仕事としてスーパーカーに接することになったけれど、当時の友だちのなかにも実際に手に入れた人がいますよ。

タイレルP34のフロントまわり。特徴的な4輪のタイヤ、サスペンションまわりの作り込みは見事だ。

――お父様の家業を継いだわけですが、先代から特別なクルマを扱っていたのですか?

父親の時代は日本車の修理や販売が主でした。私もバイクのレースの世界から離れ、家業を継ぐことになったのです。父親からクルマの修理方法などを教わりつつ、またポルシェが好きだったこともあり、レストアベースのポルシェ356を手に入れ、修復するうちに少しずつ技術を身につけていきました。

機械に関する修理方法は父から教わりましたが、板金に関しては独学です。あるとき、テレビでとある発展途上国の人が手作業で鉄板を叩いてフェンダーパネルを作っている映像を見たんです。工具も満足にそろっていないような環境でも板金作業ができるなら、自分にもいけるかもしれない、と思ったことがきっかけですね。

振り返ってみると、バイクのレースに参加していたときからFRP製のカウルを壊したら自作していたし、同じことをクルマでもやってみようと思ったのが30歳の頃でした。当時は手探りだったけれど、今はYouTubeにさまざまな動画が公開されているし、本当に便利になりましたよね。

コロナ禍の夜を利用してスタートした「1/1スケール」の自作プロジェクト

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