LE VOLANT モデルカー俱楽部

銀の縦縞から地面の轍へ――ポンティアックをシボレーより上位に位置づけたものとは【アメリカンカープラモ・クロニクル】第65回

1965年型ポンティアック・サファリ 二つ折りリーフレット
1959年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(ニューヨーク・シューバートアレー)
1960年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(ニューヨーク・マンハッタン、画廊のオープニングセレモニー)
1961年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(フランス・パリ8区、ル・マティニョン)
1962年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(エストリル・ビーチクラブ)
1963年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(イタリア・ポルトフィーノ、スプレンディド)
1964年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(コネチカット・ウェストポート、シェ・ピエール)
1965年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(イタリア・コモ湖畔、チェルノッビオ、ヴィラ・デステ
1966年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(コネチカット、ニューケイナン)
1967年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(カリフォルニア・ニューポートビーチ、バルボアアイランド地区)
1968年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(イタリア・コモ湖畔、チェルノッビオ、ヴィラ・デステ)
1969年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(メキシコ)
1970年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画(フランス・パリ8区、ル・マティニョン)
トランペッター製1/25スケール・プラモデル「1960ポンティアック・ボンネヴィル」
1969年型ポンティアック・ボンネヴィル広告・VK/AF画
1964年型ポンティアック・ブローシャー表紙・VK/AF画(ボンネヴィル・ブロアム)
1964年型ポンティアック雑誌広告・VK/AF画(ライフ誌1月3日号36–37ページ見開き、ボンネヴィル・ブロアム)
1964年型ポンティアック・アクセサリーカタログ
1964年型ポンティアック・アクセサリーカタログ
1964年型ポンティアック・アクセサリーカタログ
1964年型ポンティアック・アクセサリーカタログ
1964年型ポンティアック・アクセサリーカタログ
ルイ・シボレーと4気筒エンジン
アルフレッド・P・スローン
シーモン・E・ヌードセン
チャック・ジョーダン
amt製1/25スケール・プラモデル「1960ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1960ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1960ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1960ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1960ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1960ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「'60ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
amt製1/25スケール・プラモデル「'60ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
amt製1/25スケール・プラモデル「'60ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
amt製1/25スケール・プラモデル「'60ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
amt製1/25スケール・プラモデル「'60ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
赤い塗料サンプル
amt製1/25スケール・プラモデル「1962ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1962ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1962ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1962ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1962ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「1962ポンティアック・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’63ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’63ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’63ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’63ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’63ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’64ボンネヴィル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’64ボンネヴィル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’64ボンネヴィル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’64ボンネヴィル」
amt製1/25スケール・プラモデル「’64ボンネヴィル」
DETROIT MOTOR WONDERLANDプレート
MPC製1/25スケール・プラモデル「1966ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1966ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1966ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1966ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1966ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1966ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1967ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1967ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1967ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1967ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1967ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1968ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1968ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1968ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1968ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1968ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・オープンスポーツスター/ピックアップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・オープンスポーツスター/ピックアップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・オープンスポーツスター/ピックアップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・オープンスポーツスター/ピックアップ」
MPC製1/25スケール・プラモデル「1969ポンティアック・ボンネヴィル・オープンスポーツスター/ピックアップ」
1971年型GMCスプリント
バルボアバー
1965年型ポンティアック・サファリ 二つ折りリーフレット

Roundup:15 明滅

2009年4月27日、GMはポンティアック・ブランドの廃止を発表し、2010年10月31日の販売店フランチャイズ契約失効をもって、同ブランドは84年の歴史に幕を下ろした。

【画像84枚】ワイドトラックが描いた軌跡を広告とプラモで見る!

ポンティアックのすべてが歴史の1ページになったあと、ラインアウトを待つポンティアックはわれわれビルダーの手許にあるキットだけになった。われわれは数々の輝かしいポンティアックを詳細に記憶しているつもりだが、その記憶は、GTOやファイアバードのように長らくキットに恵まれてきた車、あるいはカタリナやベンチュラのように目新しいキットを得た車へ、あまりにも偏っているはずである。ポンティアックといえばハイパフォーマンス——もはや誰もがそれを疑わない。

アニュアルキット制度のはじまりから毎年欠かさずキット化され、ときには日本や中国のプラモデルメーカーからもキット化されることさえあったポンティアック・ボンネヴィルは、なぜかそうしたポンティアック理解の型からつねにこぼれ落ちる。アメリカンカープラモ・クロニクルは今回、アニュアルキット期にもっとも数多くキット化されたポンティアックでありながら、デスクトップの組立ラインになかなか乗ることがないボンネヴィルを取り上げる。

Chieftain with a Six-Gun

’58ボンネヴィルは、プラモデル化された最初のモダン・ポンティアックだったが、その姿には1935年以来ポンティアックのアイデンティティーを形成してきたシルバーストリークがどこにもなかった。

シルバーストリーク——ボンネット中央とリアデッキ中央をつらぬくように走るメタルの帯、純然たる装飾であって、多少の狙いはあったにせよ、ポンティアックの性能を直接支えるものではなかった。それでもこのメタルの帯は、ポンティアックを見分ける強い記号として22年ものあいだ機能し続けた。

ポンティアックの立ち位置は、ビュイック、オールズモビル、キャデラック、シボレーのように、揺るぎない起源と来歴を持つ企業がGMに合流して得たものではなかった。まずシボレーとオールズモビルのあいだに埋めるべき価格帯があり、そのあいだに位置していたオークランドを含め、GMの商品体系には整理すべき混乱があった。ポンティアックはその解決策として、オークランドの低価格側を担うコンパニオンメイクとして用意された。

GMが必要とし、ポンティアックが埋めることになる空位を、1923年当時のGM社長であるアルフレッド・P・スローンJr.は身も蓋もなく、しかし端的にこう定義している。

「6気筒のシボレー」(a Chevrolet chassis with a six-cylinder engine)

ポンティアック=6気筒のシボレーとはたいへん鋭敏な洞察・定義であると同時に、アルフレッド・P・スローンによってかけられたしつこい呪いでもあった。MITで電気工学を学び、ハイアット・ローラー・ベアリングの製図工から身を起こしつつ、24歳で社長の地位に就いてからは「GMの組織設計者」「近代企業経営のアーキテクト」の顔が前面に立つスローンは、やはりポンティアックにとっては「社内での序列を固定した男」なのだ。

まだシボレーといえば4気筒のエコノミーカーを指していた時代のことである。大量生産できるシボレーの身体に、シボレーより強力な(新型の)6気筒エンジンを搭載することで、シボレーとの差額を正当化すること——これがポンティアックにとって原初の定義だった。

この絶妙な定義は、他ならぬシボレー自身の不断の変化によって、つねに揺れ動く宿命を背負っていた。シボレーが直列6気筒エンジンを1929年に獲得すると、「6気筒のシボレー」というポンティアックの自己定義は揺らぎ、1932年になってポンティアックはサイドバルブV型8気筒エンジンの一部導入を経て、1933年には全車に直列8気筒エンジンを採用、1935年には直列8気筒エンジンをブランドの最上位として維持しつつ、ふたたび直列6気筒エンジンをスタンダードとして、総じて廉価かつシボレーとの差別化も堅持する戦略を採った。

吊り下げられた不安定さの解消

ポンティアックはつねに「シボレーとどこが違うのか」「シボレーとの価格差の根拠は何か」を問われ続けるブランドだったのだ。

シルバーストリークは、ポンティアックが気まぐれに身につけてみて長らくお気に入りとなったアクセサリーではなかった。シボレーとあまりにも近接した身体に画然と引かれた領土の線、ポンティアックを見分ける者、選ぶ者をつらぬいて光る境界線だった。

1956年にモトラマを騒がせたポンティアック・クラブ・ド・メールは、アルマイト処理されたアルミニウム、38インチの低さ、ジェット機的な安定翼、バブル型ウインドシールドを備える実験的な未来像として展示されたが、翌1957年に廃止されるシルバーストリークが2条、車体に残っていた。しかしモトラマの公式資料では、ツイン・シルバーストリークという名指しは周到に排除されていた。

このシルバーストリークを「年寄りのズボン吊り」と呼び、じつにあっさりと斥ける男がポンティアックのトップに就任した。シーモン・E・ヌードセンである。

シルバーストリークは1953年に一旦「デュアルストリーク」、1955年からはあらためて「ツインストリーク」を名乗る2条の帯に変化していたが、これを「年寄りの」ズボン吊りとは辛辣かつ言い得て妙である。シルバーストリークはビュイックのポートホールと同程度には重要だが、それはGM全体に行きわたる基本方針に基づいたボディーに各部門が加える地図的な縮約に過ぎない。

ビュイックのポートホールならまだGM合流以前の歴史をめぐる案内標識たりえるが、ポンティアックのそれはシボレーとの区割りである。ポンティアックは割り当てられた領域を、他では代替不可能な「世界」に作り直す必要があった。「線があるからポンティアック」の物言いを返上することは「割高なシボレー」呼ばわりと金輪際手を切るということでもあった。

「線があるからポンティアック」を返上したあと、ポンティアックは新しい世界の土台を文字どおり車体の下に構築しはじめた。左右の車輪をぐっと外側へ押し拡げる——ワイドトラックである。

前輪トレッド63.7インチ、後輪トレッド64インチ。前年(1958年)のポンティアック自身と比較しても約5インチ、同年(1959年)のシボレーと並べても前輪3.4インチ、後輪4.7インチの余裕がある。外見からは車輪がフェンダーの奥に引っ込まず、より力強く大地を踏み締めているかに見え、横方向の荷重に対して走行安定性が飛躍的に高まったとの説明にも説得力があった。

ポンティアックのステップファーザー、シーモン・E・ヌードセンを本稿が親しげに「バンキー」と呼ばなかったのは理由がある。われわれはミッキー・トンプソンでもスモーキー・ユニックでも、ピート・エステスでもジョン・デロリアンでもない、「ボンネヴィルがよくわからない」連中なのだ。この距離を保たなければ、われわれはポンティアックとボンネヴィルを凝視しようともしないのだから。

実際に’59ポンティアックを3,000マイルのロードテストに駆り出したホットロッドマガジンは「これは広告上の仕掛けではない」(not just an advertising gimmick)とことわったうえで、「私たちがこれまで運転した中で、最もバランスの取れた市販車」(best balanced stock car we have ever driven)との総合評価を下し、モータートレンドも「自動車分野における画期的な進歩」(outstanding automotive advance)、「アメリカでもっともバランスのとれた市販車」(best balanced passenger car in America)と言い切っている。

メーカーの広告的な言辞とはとかく距離をとるポピュラーサイエンスも「理論的にも妥当なロール剛性の向上」を認めたうえで「幅が広くなって古いガレージには入れにくくなるのでは」と皮肉なジョークを交えている。総じて当時のロードテストは「足の柔らかい大型のアメリカンカーとしては異例にも旋回時のロールが少なく、フラットで踏ん張りがきく」とポンティアックの新しい身体を捉えていたといえる。

「シボレーとの差」という古くから根深い問題を正面から持ち出したのは、ポピュラーサイエンスくらいだった。同誌はかつてのポンティアックを「シボレーの不格好な兄」と呼びながら、新型については「自動車界の社交名鑑に名を連ねた」とさえ評していた。

デビュタントボールに向かうポンティアック

ポピュラーサイエンスが新しいポンティアックに見出したのは、走行安定性の向上だけではなかった。「社交名鑑」という言葉で捉えられたその社会的身体は、同誌のタイプライターからたまさか転がり出たものでもなかった。

1959年、ポンティアックはワイドトラックによって得た新しい身体にふさわしい世界を視覚的に与えはじめた。VK/AF——ヴァン・カウフマンとアート・フィッツパトリックという2人組の広告イラストレーターの起用である。

抜擢されたふたつの特異な才能という表現ではその多くを取りこぼす、きわめてシステマチックなチームだった。フィッツパトリックは車そのもの、カウフマンは車が溶け込む風景と人物をそれぞれ専門に描くのだが、ふたりがポンティアックから与えられた裁量権はたいへん大きく、彼らはアメリカ国内のみならず世界各地を——新しいポンティアックが溶け込むにふさわしい空間を求めてカメラを手に飛びまわった。

1959年ニューヨーク、シューバート・アレー。「ブロードウェイの心臓」との異名につられて訪れた旅行者は、劇場資本のひしめく土地に消防法がつくったこの小路のあっけない短さ、狭さ、楽屋裏の風情に戸惑うはずだが、大スターも、売れない端役も、エージェントも、コーラスガールも、新聞記者も平等に行き交うこの場所に、VK/AFはボンネヴィルをはっきりと「注目の新人」として配置している。堂々たるワイドトラックを「こいつは将来大物になる」証拠として見せるには絶好の場所だ。

ビヴァリーヒルズのヒルトン、ニューヨーク・タイムズスクエア、マドリードのホテル・リッツ、ニースのホテル・ネグレスコ、アカプルコのラス・ブリサス、エストリル・ビーチクラブ、ポルトフィーノのホテル・スプレンディド、パリ・モンテーニュ通りのクリスチャン・ディオール、モナコのオテル・ド・パリ、ギリシャ・イドラ島の海岸……とても書き尽くせないほどさまざまな風景をバックに、実際の寸法よりもぐっと低くワイドに誇張された新型ポンティアックが、場にふさわしい人物とともに描かれた。

写真資料として集められた風景はカウフマンに選別され、線画にトレースされたポンティアックはフィッツパトリックによって一度ばらばらにされたうえで再構成され、強く理想化された。

この理想化された「ポンティアックのある風景」は反復される形式となり、その後に登場する事情の異なる身体まで、すでに成立したポンティアックの世界に属するものとして読ませる余地を作った。

1961年にポンティアックはより小型のモデルをラインナップに加えていて、1964年、GM各部門のインターミディエイトとAボディーの基本設計を共用することになったテンペスト/ルマン、そしてルマンに設定されたGTOは、シボレー・シェベルとまったく同じ前後とも58インチのトレッドにもかかわらず「ワイドトラック・ポンティアック」として扱われた。

少なくとも中型ポンティアックにおいては、他車との明瞭な実寸差によって支えられていたワイドトラックは、「ポンティアックだからワイドトラック」というブランド上のトートロジーへと変質しはじめていた。

それでもフルサイズのポンティアックには、多少の縮小を経験しつつも、ワイドトラックを文字どおり支える実寸上の差異が残った。そして、そのフルサイズ・ポンティアックの身体をアニュアルキットのはじまり以来途切れることなく引き受けたのがボンネヴィルだった。ボンネヴィル成立以降のポンティアックは、シボレーとの距離ではなく、むしろボンネヴィルとの距離によって、さまざまな「変奏」を実現したが、VK/AFの画筆はあらゆるポンティアックをつねにどこかボンネヴィルのように描いた。

1970年フランス、パリ8区、ル・マティニョン。ここの変わらない味とサービスを満喫し、新しいボンネヴィルに乗り込もうとしているのは、おそらく両親と娘である。エントランスから見送るメートル・ドテル(給仕頭)はベテラン、先に助手席へ乗り込んだ娘の笑顔からは、満ち足りたリラックスが読み取れる。家族水入らずの愉しい食事といえば、やはりここなのだろう。

ワイドトラック・ポンティアックにトラックは必要なかった、か?

amtからMPCへと途切れることなく続いたアニュアルキットとVK/AFによるアニュアル広告、このふたつの表象形式はほぼ同時期に、ポンティアック・ボンネヴィルから手を引いた。

1970年9月15日にはじまったGM労働者のストライキは67日間に及び、GMに10億ドルあまりの損失をもたらした。その渦中、ポンティアックのゼネラルマネージャーを務めていたF・ジェイムズ・マクドナルドは宣伝にかかる予算を大幅に削減し、写真広告に較べて制作費がかかり過ぎると判断されたVK/AFは、1970年10月に契約を打ち切られることになった。VK/AFが描いた最後のボンネヴィルには、特定の地名が明記されていなかった。

ポンティアックのアニュアルキット・ライセンスを独占していたMPCは、ボンネヴィルが1971年に新しく登場するポンティアック・グランヴィルにその地位を譲るのを機に、ボンネヴィルにもグランヴィルにもキット化の道を開かず、GTOやファイアバード、グランプリといったよりスポーティーなモデルに開発を絞り込んだ。

MPCが最後に手がけた’70ボンネヴィルのキットには、異例としか言いようのない盛り込みが施されていた。ポンティアックのラインナップには存在しない、乗用車ベースのピックアップオプションが用意されていたのである。この特異なオプションは、’69ボンネヴィルのアニュアルキットから引き継がれたものだった。

’69ボンネヴィル・コンバーチブルに盛り込まれたピックアップ・オプションを、本稿はもう問題作と呼ぶ気はない。大胆だが妥当性がある。ポンティアックがトラックを作る気はないと否定しても、誰かが一度は夢みたことのある身体かもしれない。ゴードン・タイセンを立ち上がらせた、それを望む声も確かにあった——どうあれMPCはボンネヴィルにピックアップの可能性をひらき、透明のトノーカバーを付け、そこにたいへんよく練られたおまけを詰め込んだ。

ここで注目したい事実がある。1968年頃のこと、ニューヨーク州北部に位置するポツダムで長年アディロンダック・オートセールズというポンティアックディーラーを営んできたゴードン・タイセンは、ポンティアック・ルマンのフロント部とエンジン、インテリアにシボレー・エルカミーノの荷台とキャブを接合し、ポンティアック固有の装飾をリアセクションに散りばめた「ポンティアック版エルカミーノ」ともいうべきカスタムトラックを作り上げて、ポンティアックへのプレゼンテーションをおこなった。

タイセンの店ではGTOもファイアバードもよく売れたというが、そうして獲得した顧客からときおり突きつけられる要望に、どうしても応えられないものがひとつあった。作業用の本格的なトラックではなく、乗用車と同じ低い着座位置と乗り心地、GTOやルマンに通じるスポーティーな外観、日常の足として使える装備と内装、ボートやトレーラー、スノーモービルなどを運べる荷台と牽引能力を持った、まさに「シボレーで売っているエルカミーノのような車」が欲しいという要望である。

シボレーにはあるものが、なぜポンティアックにはないのか——時折あらわれるこうした詰問に窮し、実車を作り上げるまでに到ったタイセンの提案は、ポンティアックによって一定の検討はなされたとされるものの、最終的には受け容れられることなく、ごく限られた範囲で語られる小さなニュースとして片付けられた。

もちろんMPCの’69〜’70ボンネヴィルに組み込まれたピックアップオプションとこの珍事件を強く結びつける証拠はない。しかしながら、「シボレーにあるものがなぜポンティアックにはないのか?」という再帰的な問いが、ある地方ディーラーに車を作らせてしまう程度には存在していて、それがプラモデルにもまるで兆候のようにあらわれたことはきわめて興味深いことに思われる。しかもこの試みを受け止めた器は、プラモデルにおいてはルマンではなくボンネヴィルだったのだ。

おそらく読者のうち何人かが、この後ろ姿を見ながら「ここからどうやってピックアップにするんだ……」と悩んでいる。悩んでいるあいだ、’69ボンネヴィル・コンバーチブルはその人の脳裏からいなくなる。ボンネヴィルだけではない、あらゆるテーマがビルダーの目の前で、ただの「未組立の素材」になりうる。ただの素材ですら抵抗するのだから、ただものではない素材はもっと抵抗するだろう。

冒頭にも述べたとおり、現在ラインアウトを待っているポンティアックはビルダーの手許にあるキットだけである。’70を最後にキット化されなくなったボンネヴィルが、今後新金型というかたちでキット化されることはきわめて望み薄だが、いまも金型の残るMPCの’70ボンネヴィルは、ついにポンティアックが実現させることのなかった未決の身体をひとつ余分に抱えたまま、ラウンド2によって2016年に再販を果たした。

「ポンティアックがトラックを発売することはない」——これはポンティアックがゴードン・タイセンに突き返した言葉だとされている。歴史は事実そのとおりになった。しかし、ポンティアックの正式な承認なしに市場へ出回るはずもないアニュアルキットには、トラックの身体が確かに2年ものあいだ付属した。それもボンネヴィルに。

わからないことだらけである。読者がこれからラインアウトさせる一台が最新にして最後のポンティアック・ボンネヴィルになる以上、ポンティアックは態度を決める必要がある。

 

※今回、amt 1/25「1960ポンティアック・コンバーチブル」、「1960ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」、「1962ポンティアック・コンバーチブル」、「’63ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」、「’64ボンネヴィル」、MPC 1/25「1966ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」、「1967ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」、「1968ポンティアック・ボンネヴィル・ハードトップ」、「1969ポンティアック・ボンネヴィル・コンバーチブル」、「1969ポンティアック・ボンネヴィル・オープンスポーツスター/ピックアップ」、そして1965年型ポンティアック・サファリのリーフレットおよび1964年型ポンティアック・アクセサリーカタログの画像は、アメリカ車模型専門店FLEETWOOD(Tel.0774-32-1953)のご協力をいただき撮影しました。
※また、トランぺッター1/25「1960ポンティアック・ボンネヴィル」の画像は、読者のG3さんよりご提供いただきました。
ありがとうございました。

【画像84枚】ワイドトラックが描いた軌跡を広告とプラモで見る!

「アメリカンカープラモ・クロニクル」連載記事一覧はこちら

写真:秦 正史、bantowblog、General Motors、G3
bantowblog

AUTHOR

1972年生まれ。日曜著述家。Bluesky SNSを中心に、stand.fmでラジオ形式のホビー番組「バントウスペース」をホスト中。造語「アメリカンカープラモ」の言い出しっぺにして、その探求がライフワーク。

注目の記事
注目の記事

RANKING