養蚕業に欠かせなかった大家族での共同生活
国内有数の豪雪地帯ということもあり、1年の半分は下界から隔絶されていたともいわれる山村に、なぜこれほど立派な合掌造りの家が建ったのだろう。そこには山里ならではの営みが色濃く浮かび上がってくる。
この日、白川郷の積雪は約80cm。
「ものすごい雪ですねぇ」と道の駅で女店員さんに話しかけると、軽くあしらわれてしまった。
「まだまだ積もりますよ~。白川の雪はこんなもんじゃありませんから」
合掌造りというのは、岐阜/富山県境の山間部に独特な農家の造りで、傾斜の強い切妻屋根が掌を合わせた形に似ていることからその名がある。この地方に合掌民家が建てられるようになったのは江戸時代初期。世界遺産の白川郷や五箇山には築300年、築400年という建物も珍しくない。
合掌造りは小さなものでも3層、大きなものになると5~6層、高さは15mにも達する。近寄ると見上げるほどの大きさなのだ。では、なぜこれほど大きな家が必要だったのだろう?
寒冷な白川郷周辺では稲が育たないため、養蚕業が山村の暮らしを支えてきた。その蚕を育てるには風通しのいい、広い屋内空間が不可欠。また、餌となる大量の山桑を集めたり、繭から生糸を紡ぐには、多くの男手や女手も必要としていた。さらに言うと、耕作地の不足する山村では、分家はなかなか許されず、子どもたちは成長後も家長のもとで一緒に暮らしていくことが多かった。こんな背景から生まれたのが巨大な合掌造りの家なのである。
江戸時代から明治にかけて、白川郷では30人から40人もの大家族がひとつ屋根の下で暮らしていたという。