山村の暮らしを支えるもうひとつの産業があった
「五箇山には養蚕とは別にもうひとつ重要な産業がありました。それが黒色火薬の原料となる塩硝作りなのです」
これを教えてくれたのは、五箇山民俗館『塩硝の館』のスタッフだった。
江戸時代、五箇山を治めていた加賀藩は秘密裏に塩硝作りを奨励していた。当時は鎖国のため、海外から硝石を輸入することができず、自前で火薬の原料を作るしかなかったからだ。
ちなみに塩硝の原料となるのは、ヨモギや稗殻、蚕の糞など。山村では普通に手に入るものばかりである。これらを囲炉裏の下に深い穴を掘って埋め、5年ほど熟成させると、バクテリアの作用により硝酸カリウム(塩硝)ができあがる。ある意味、最先端のバイオテクノロジーと言っていい。
こうして作られた火薬の原料は、塩硝街道と呼ばれる険しい山道を越え、加賀百万石の城下町にこっそり運ばれていった。現在の県道10/58号、ブナオ峠から湯涌温泉に抜ける道である。
なぜ山奥の小さな村にこれほど立派な合掌造りが立ち並んでいるかという理由も、裏の産業があったとすれば十分に納得がいく。この塩硝作りは高山藩領(のちに天領)の白川郷でも盛んに行われていた。
むしろ、この一帯が時代から取り残されてしまうのは近代以降のことになる。明治維新後、安価なチリー硝石が輸入されると塩硝作りはたちまち廃れ、その後、化学繊維の登場で養蚕業も壊滅的な打撃を受けてしまう。東海地方と北陸を結ぶ鉄道や幹線国道も、ひと山向こうの高山市を通るようになったため、この一帯は物流の流れから完全に取り残され、次第に秘境化していくことになるのだ。
「なにしろ貧乏でしたからね、新しい家に建て替えられなかったのですよ」
お世話になった合掌民宿・十右エ門のご主人は、なかば冗談めかしてこんなふうに話していたが、そのおかげで合掌造りの家々は現代まで生き残ることができ、さらに時が流れると、世界遺産として世間から大きな脚光を浴びるようになる。
かつて陸の孤島と呼ばれた豪雪の村には、いまや快適な高速道路が通り、冬でも除雪が行き届き、1年を通じて大勢の観光客が押し寄せている。こうした移り変わりを見ると、街道もまた、人とともに栄枯盛衰を繰り返す生き物だということをつくづく実感する。