参勤交代の道として利用したのは松前一藩だけ
江戸時代に整備された街道のうち、もっとも北にあるのがこの松前街道である。津軽半島を抜けて函館にいたるルートの全長は約200km。そのうちの約40kmは津軽海峡をわたる海路が占める。蝦夷地唯一の松前藩が参勤交代に利用した道である。
江戸期を通じて、街道の発達にもっとも貢献したのは参勤交代だろう。
そもそも大名の妻子を人質として江戸屋敷に住まわせ、君主に一定期間ごとに国許との間を往復させる参勤交代は、移動や江戸滞在など、諸大名に膨大な出費を強いるのが目的だった。つまり、徳川幕府の安定を図るために考え出された制度なのである。
一方、全国から江戸をめざす大名の行列は、街道の整備を促すとともに、全国の宿場に大きな利益をもたらした。なにしろ加賀百万石の大名行列ともなれば、人足まで含めた随行員の数は最低でも2000人、最大時には4000人にも達したといわれる。
沿道の人々にとって、大名行列は臨時収入のチャンスであるとともに、最大級の娯楽でもあったに違いない。そして、この壮麗な行列が向かう先にあるのは、江戸という大都会であったり、言葉も風習も違う遠い国であったり。もしかすると、今われわれが街道という言葉にどことなくロマンチックな気分を感じるのは、その名残なのかもしれない。
この松前街道も参勤交代のために整備された道のひとつだが、ただし、東海道のように諸国の大名が行き交う賑やかな道ではなかった。ここを通るのは、当時、北海道に置かれた唯一の藩、松前の殿様の行列だけだった。
起点となるのは奥州街道と羽州街道が合流する青森湊。そこから陸奥湾に沿って津軽半島の東をぐるっと回り、龍飛崎に近い三厩(みんまや)から北海道へと渡る。途中、約40kmの海路をはさんで青森と函館を結んできた道なのだ。
現代の松前街道、国道280号もじつにのどかな道である。山裾まで開かれた水田、海岸の松並木、そして、ときおり現れる鄙びた漁村。こんな風景のなか、こぢんまりした大名行列がのんびり進んでいったのだろう。